2008年12月20日土曜日

Pasolini, Poesie a Casarsa   パゾリーニ      カザルサの鐘の音に








カザルサの鐘の音に
──まえがき&付記――
花野秀男



 フリウーリ地方は、イタリア北東部にあって、
 「これがイゾンンツォ川/ここでぼくは/思い知ったおのれが/この宇宙の撓めやすい/一本の繊維にすぎぬことを」
 と、詩人ウンガレッティが前大戦の激戦のなかで歌ったイゾンツォ川近くで旧ユーゴスラヴィアと国境を接し、パゾリーニの弟グィードが今次大戦末期に行動党系のパルチザンとしてナチ・ファシスト軍相手に勇戦中に共産党系パルチザンの騙し討ちに遭って仲間とともに斃れた《ポルツゥスの悲劇》の起こったアルプスに列なるカールニア山系で、オーストリアと接している。
 フリウーリの高地と低地を分かち結ぶアルプスの豊富な地下水の湧水線は、パゾリーニが青春期の夏を過ごした母方の故郷カザルサで無数の泉を現出し、その水が人びとの喉を潤し、ぶどう畑や桑畑を潤す用水となり川となって、アドリア海に注ぐ。
 こうして本詩集劈頭の献詩
 「ぼくの故郷の水の泉。/ぼくの故郷の水よりも冷たい水はない。/いなかの愛の泉。」
 が生まれる。
 この詩は、他の数篇の詩と同じく、イタリア語で書かれ、数日後にフリウーリ語に翻訳された。このようにパゾリーニは避暑先(後に疎開先)のカザルサではイタリア語で詩作し、生地ボローニャに帰着後に、農民世界へのノスタルジアに衝き動かされるようにしてフリウーリ語での詩作を重ねていった。
 ルチアーノ・セッラに宛てた手紙を読むと、二十歳間近のパゾリーニがいかに真摯に友人たちの詩作を批評し励ましていたかが分かる。
やがてパゾリーニはフリウーリ語の詩語としての確立を目指してフリウーリ語による詩作を意識的に展開してゆく。その出発点となったのが本詩集に収められた詩群である。
 その多くが一九四一年夏から書きはじめられ、翌四二年七月にボローニャのマーリオ・ランディ古書店から上梓された。POESIE A CASARSA [ Libreria antiquaria Mario Landi, Bologna, luglio 1942]
 慧眼のジャンフランコ・コンティーニは直ちに書評を寄せている。本詩集に用いられているフリウーリ語は「原注」にも触れられているように、カザルサの話し言葉にフリウーリの一種の共通語コイネーを付加し、さらには現実には存在しない絶対言語を目指して言語学的な「腕力」さえ振われている。
 第二次大戦中、しかもファシスト政権下という昏い時代を切り裂く、瑞々しく清冽な、詩情溢れる本詩集の発表によって、若いパゾリーニが「ランボーの再来」と目されたことも必ずしも過褒ではない。
 否、それどころか、パゾリーニのフリウーリ語詩群の輝かしい金字塔である『最良の青春』が、戦後一九五四年にフィレンツェで出版される日までには、数々の小詩集の上梓を重ねて、詩人の仕事としては質量共にランボーを凌いでいたと言っても、あるいは過言ではないかも知れない。
 パゾリーニのイタリア語詩の主要な詩集の発表がまだこれから、一九五七年『グラムシの亡骸』、五八年『カトリック教会の夜鳴き鶯』、……六四年『薔薇の形の詩』……と、陸続と続くことを思えば、「前半のモンターレを除けば、今世紀最大の詩人」というモラヴィアの評言もまた、過褒とは言えないかも知れない。
 それにしてもパゾリーニの詩業の基点にフリウーリ語詩があり、そのフリウーリ語詩群の原点に本詩集のあることは、確かに読む楽しみは倍加させるにしても、翻訳に一層の困難を齎した。
 実際、フリウーリ語と一口に言っても、タッリアメーント川右岸と左岸(あちらには、あの『美少年エルネスト』のサーバがいる。)では大きく異なるだろうし、同じ右岸でも、どうも平原の町や村ごとに、山間ではそれこそ谷ごとに、言い回しはもとより、少しずつ単語や抑揚や発音が違うのではなかろうか。
 パゾリーニの「フリウーリ語を詩語として確立する」という意図がそこに加わるのだから、詩想を的確に把握するためだけにでも、パゾリーニ自身の記した脚註たるイタリア語詩の参照は不可欠である。
 翻訳に際しては、もとのフリウーリ語詩の溌剌たる響きはまず抜け落ちてしまう。けれども日本語版の訳詩にあっても、原詩の響きの何程かは、谺の谺としてでも、止めえたのではなかろうか──そんな不可能事をつい期待させるほど原詩は素晴らしい。改行、句読点などは、フリウーリ語詩を忠実に踏襲した。
 もとよりフリウーリ語詩からの直接訳を心掛けたが、筆者のフリウーリ語の理解がなおまったく浅いために、また筆者の場合フリウーリ語の唯一の師はパゾリーニ自身の著作だけであるがゆえに、ピローナのフリウーリ語/イタリア語辞書は散々引きながらも、なおパゾリーニ自身によるイタリア語脚註に大いに依拠した。
翻訳テキストには《LA MEGLIO GIOVENTU`》SANSONI FIREENZE,1954、《LA NUOVA GIOVENTU`》EINAUDI,1975など、他の版を充分に参照しながら、パゾリーニ全詩集PIER PAOLO PASOLINI《BESTEMMIA―Tutte le poesie》GARZANTI,1993;ii.pp.1191~1221を使用した。
 原書の本文がフリウーリ語詩、脚註がパゾリーニ自身によるイタリア語訳(パゾリーニ自身によるイタリア語詩からフリウーリ語詩への翻訳が作詩の過程にままあることはすでに述べた。)という体裁を、日本語版の本訳詩集でも踏襲した。すなわち、本文がフリウーリ語詩からの日本語訳、脚註がイタリア語詩からの日本語訳である(本訳詩集においても本文と脚註との相関関係が大いに働いたこともすでに述べた)。ここにパゾリーニ自身の言葉を引用しておこう。
 《最後につけ加えておきたく思うのだが、脚注のイタリア語訳が語彙集の代わりになるとして、それも語彙集に比べればかなり分の悪いのは否めないけど、このイタリア語詩は、本書の詩テキストと一体となってその一部をなし、ときには必須の構成部分をなすのである。それゆえ、ぼくはこれらのイタリア語詩を、その詩想においてフリウーリ語詩と同時に、丹念に推敲した。読まれぬよりは、イタリア語詩のみによってでも、読まれたほうがましだ、と考えてのことである。》〔『最良の青春』「ノート」、一九五四年、より〕。
 もう一つ、パルマの詩人アッティーリオ・ベルトルッチ(映画監督ベルナルド・ベルトルッチの父親)の言葉を引用しておこう。
 《パゾリーニの人生の歳月であると同時に長編小説のいろいろな出来事がくり拡げられる時期でもある、およそ一九四三年から四九年にかけてのビブリオグラフィーには、小さな、火花のように閃く、一冊『カザルサ詩集』しか記されていない。この処女詩集においてとても若かった著者が、研究したてのロマンス語と、母方の故郷であり休暇の里でもあるあのカザルサの実際の話し言葉から、よく使われるのに玄妙に文学的な言語をつくりあげて、荘重で立派ではあるもののいささか息のつまるエルメティズモのイタリア語の束縛からおのれを解き放った。こうして彼はあの時代に唯一の「新しい詩人」として登場するのである。
 パゾリーニの烈しく悲劇的な生涯をいま再び物語ろうとしているのではない。ここでは次のことを想起すれば足りる、戦争末期の辛い時代に大学を卒業したてで忌避の兵士(イタリア降伏時にドイツ軍への武器引渡しを拒んだ)となったピエール・パーオロ・パゾリーニは、母親と一緒にカザルサへ逃れた、その町を叙情的に模写して称揚しながら書き上げた詩の数々ゆえにいまでは彼の町でもあったその町へ。その時以来カザルサは、ヨーロッパの詩的地理に組み込まれた。パゾリーニの愛してやまないアントーニオ・マチャードのソーリアにもやや似て。》
〔ピエール・パーオロ・パゾリーニ『愛しいひと』花野秀男訳、青土社、「序」より。なお、パゾリーニの生涯と作品についても同書、「訳者あとがき」中の「P.P.P.の生涯と作品」にやや詳しく触れてあるので参照されたい。〕
 結果的にこの「序」は本詩集にも相応しいものであった。

 ところで、いま少し具体的な解説、あるいは踏み込んだ記述が必要であったかも知れない。寛容な少数の若い読者のために、心の篋底を探って「付記」として、いまはその若干を右に記す。


付記

1.詩をどのように読むかは、人それぞれだろうけれども、それとは別に、解釈にとまどったいくつかの詩篇については、詩のイメージを掴むために、物語の断片というか、詩行ごとに情景を繋げて、詩の背景を目視的に思い描いてみたりもした。たとえば、「国境にふる雨」(12頁)は──
 砲声が轟く。なんの変哲もない長閑な僻村に、国境から戦争が押し寄せてきた。空が降りそそぎ、わずかな戸数の家々の屋根という屋根は砲弾に打ち砕かれ、崩れ落ちて、父と母、祖父母も死んだ。生き残った兄弟たちと家に帰ってみれば、焼け残った台所の片隅の竈の上に、散らかった鍋釜の上に、雨が直に降り注ぐ。雨があがれば陽射しだ。焼け残った台所の片隅の竈の上に、散らかった鍋釜の上に、陽射しが直に降り注ぐ。
 《少年よ、空がふる/おまえの故郷の竈のうえに》。
貧しい農家の労働の厳しさは別として、楽しかった幼い少年の日々、一瞬にして崩れてしまった幸せ。こうして苦難のそのひと月が始まる。
 《薔薇と蜜のおまえの顔のなかに/すっかり緑に覆われてそのひと月が生まれる》。
 否、少年はすでに死んでしまったのだろうか? 庭の片隅で──すっかり緑に覆われて、とある。
 薔薇と蜜の顔の少年は死んではいなかった。飛び交う銃弾に追われて、弟や妹たちと一緒に桑畑に逃げ込む。桑の木の根元にしがみついて顔を伏せる。しばらくして見上げると、桑の木の幹が黒々と天に蟠っている。生い茂る桑の葉を縫うように、強い陽射しが少年の頬を焼く。突然、頭上の桑の枝々が燃え上がる。まるで太陽がさらに燃え上がったみたいだ。その太陽さえも、烟る桑畑の黒い煙に霞んでしまう。
 《桑畑のうえの不吉な翳が/──最後の日に──太陽を/燃やし烟らす》。
 いまはもう弟や妹たちも死んでしまった。少年ひとり奇しくも逃れて、進みゆく前線の背後に取り残されて、人けのない国境でたったひとりで歌う、弟や妹たちと夕映えのなか、よく唱ったあの歌を……
 《国境で/たったひとりでおまえは死者たちを弔う歌をうたう。》
 一月後、少年は廃墟と化した故郷の村へ、焼け落ちた自分の家の前へ、麦打ち場に舞い戻る。空が煌めき、誰もいないバルコニーの残骸の上に、少年の歪んだ頬の上に、太陽の強い陽射しだけが、何事もなかったかのように、情け容赦なく照りつける。
 《幼い少年よ、空が笑う/おまえの故郷のバルコニーのうえで、/血と憎しみのおまえの顔のなかで/すっかり蒼ざめたそのひと月が死ぬ。》
 もちろん、この詩篇はこうして読み取ったひとつの物語のうちにだけ閉じ込められてしまうものでないことは、断っておかねばならないが……
 それこそ読者の数だけ、一篇の詩ごとに物語の数は膨らむことだろう。

2.あともう一篇、迷う解釈に疲れた折りの、詩の情景、そのイメージを記しておこうか。たとえば、「死んだ坊や=少年」(12頁)。
 夕闇が迫り、夕映えの残んの光りたちがきらきら煌めいては用水路に漲る水の小さな波頭で遊んでいる。そんな闇と光の狭間の野辺を、ひとりの女が歩みゆく。
《夕べの光きらめき、堀に/水はみなぎり、孕んだ女が/野辺を歩みゆく。》
 いままた孕んだ女は、去年亡くした美しかった幼子のことを想う──わたしはあなたを思い出す、ナルキッソスよ、あなたは黄昏の色をしていた、弔いの鐘の鳴ったときに。
 あるいはまた、いまは他家に嫁した女、孕んでいる子が夫のものか、いまは亡き恋人の青年=少年ナルキッソスのものかは分からない。否、女だけが知っている。
《ナルキッソス、あたしはおまえを覚えていてよ。/弔いの鐘が鳴ったときに、おまえの肌は/茜色に染まっていた。》
 そうではなくて、誰かの弔いの鐘の鳴ったときに、女と青年=少年は逢引をしていたのか……
 さらには、夕映えの余光煌めく暖かな宵に、誰か青年と少年ナルキッソスは木陰で逢引をしていた。女はその情景を覗き見てしまっただけなのだ。そのときに《黄昏の色をしていた》美少年のことを、弔いの鐘の音につれて思い出しつつ、女は野辺を歩みゆく……
 三行、三行に分かたれてはいるが、実はたった二(文)行の詩なのに、否、それだからこそ、さまざまな連想の可能性を孕んでいて、放っておけば想像も遂には妄想に似てしまう。これはたった二行の物語詩なのかも知れない。
 ちなみに、前項1.の詩篇は四行ずつ三つに分かたれているが、実は三(文)行の詩であり、あれは三行の物語詩だったのかも知れない。

3.あと一つ、「ある帰郷に寄せて」(19頁)。この詩篇の主人公をロシア戦線に送り出されていたアルプス山岳兵としてみようか。
 どうやらこの帰郷は生身の帰郷ではなさそうだ。なぜなら、儚い関守のような娘=巫女に出会って、枯れ柴を燃やした黒い煙の占いに、おのれが生身ではないことを思い知らされる。それまで主人公=亡霊はおのれが亡霊であることを知らず、果てし無いロシアの大地を故郷目指してひたすら歩いてきたのだった。身体はいまも表面だけ溶けだした凍土の泥濘に漬かっている。救いのない兵士の亡霊は故郷の村の鐘の許に辿り着く。すると、鐘の声が優しく響く。
 《時は移ろわず、/父親たちの笑顔は/──枝々に雨がとまるように──/子供らの顔のなかに宿っている》。
そう、許されずとも、子供らの眸のなかに、父親たちのかつての笑いが宿っている。

4.さて、フリウーリ語詩の最大の魅力の一つ、音の魅力についても触れておかぬわけにはゆかない。
 たとえば、この「付記」1.で取り上げた詩「国境にふる雨」(12頁)の最初の四行に分かたれた一文ついてだけ、三つの言語の音を比較してみようか。a.がフリウーリ語、b.日本語、c.イタリア語である。もとより、a.とc.については、カタカナ表記のあくまで近似的な音にすぎないが……

a1.ファンタスートゥ、 ア プルーフ イル シエール
b1.おさないしょうねんよ、 が ふる そら
c1.ラガッツェット、ピオーヴェ イル チエーロ

a2.タイ スポレールス ダル トー パイース、
b2.のうえに、かまど の おまえの こきょう
c2.スイ フォコラーリ デル トゥーオ パエーゼ、

a3.タル トー ヴィス ディ ローゼ エ メール
b3.のなかに おまえの かお の ばら  と みつ
c3.ネル トゥーオ ヴィーゾ ディ ローザ エ ミエーレ

a4.ドゥート ヴェルドゥート ア ナース  イル メーイス。
b4.すっかり みどりにおおわれて が うまれる。そのひと つき
c4.トゥット ヴェルディーノ ナッシェ   イル メーゼ。

 こうして並べてみると、ここでは副次的なことながら、フリウーリ語の「ア」と日本語の格助詞「が」の奇妙な対応ぶりにも気づかされる。

5.本詩集の構成についても触れておこう。大きく二部に分かたれて、その第一部が「Ⅰ.カザルサ詩集」で、十三篇の詩篇から成り、第二部は「Ⅱ.オリーヴの日曜日」で、比較的に長いこの詩篇一篇で成っている。


6.(増補)についても触れておこう。前掲詩集『最良の青春』から、本書との関連の濃淡に留意しつつ、訳者が比較的に自由に採った。そのうち本書「Ⅲ.ハレルヤ」については『最良の青春』第一巻第一部Ⅰ.カザルサ詩群(一九四一ー四三)中のⅡ.ハレルヤ、五篇中から四篇を、同二部スウィット・フールラーナ〔フリウーリ農民の舞踏、その組曲〕(一九四四ー四九)二十三篇中からは本書「Ⅳ.フリウーリ舞曲」に七篇を、第二巻第一部「コラーンの遺言」(一九四七ー五二)十三篇中からは本書「Ⅴ.コラーンの遺言」に四篇を採った。
 テキストにはSansoni版のLa Meglio Gioventu`初版本を使用したが、前掲全詩集Bestemmia第一巻も併せて参照した。
 『最良の青春』「ノート」にも記されているように同書の原詩に使用されている言語は、本詩集本編の詩的言語コイネー=フリウーリ語とは違って、Ⅱ.ハレルヤやフリウーリ舞曲の各篇も、カザルサおよびその周辺の話し言葉のフリウーリ語であるが、例外的にヴァルヴァゾネやコルドヴァドやグレリスのフリウーリ語や、カーオルレのヴェーネト方言を用いた詩篇もある。ちなみに本書に取り上げた最後の四篇中三篇は、「盗まれた日々」はコルデノンスのフリウーリ語、「コラーンの遺言」はバンニァのフリウーリ語、「ほんもののキリストが来て」はポルデノーネのヴェーネト方言である。

7.詩中のほんの一語についても記しておこうか。たとえば、「ああ、ぼく、少年よ!」(13頁)中の「他界(あちら)では」はフリウーリ語詩ではLajであり、新ピローナによれば、Luという言葉は十五世紀ごろから使われていたらしい。
 Luは「逝く」、「他界する」という文脈でも使われていたようだ。イタリア語詩ではLaggiu`であり、普通は目に見える「あの下のほうに」、「あっち」だ。同じ語は「美少年の連祷」(14頁)中にも現われる。
別の世界だとしても、地獄か、煉獄、こちらが地獄か、現世かによる。いずれにしても即物的に目に見えるもの、おのれの足下に口を開ける異界を指すのだから、「あちら」と訳したい。
 しかし、眼に違和を覚えて異界が覗くようここでは、漢字は「他界」を当てた(仮に日本語で「異界する」と使えれば「異界」を当てたことだろう)。
同じ語は17頁「逃亡」中にも現れるが、ただし、こちらはla`の形だ。よって「異界」を用いた。
 最後にこの語は「ナルキッソスのダンス」(47頁)中に現れる。ただし、こんどはLi`の形であり、「彼処」を使わせてもらった。戦中戦後をとおして死が身近であった、否、数多の死のなかで弟の死、おのれの死と背中合わせに生きることが、すなわち詩を書くことであった二十歳代のパゾリーニにとって、他界、異界、冥界は眼前にも、また振り向けばすぐそこに迫ってあったのである。たとえ、虚ろな無としてでも…… 〔しかし、実際には、本書の初校以前に、つまりプリントアウトした段階で「他界」は単に「あちら」に戻すことにした。詩中で「他界」はいかにも重たいし、またそれ以上に、「あちら」が他界、異界、冥界を含む/指す詩語であることを詩において納得させる訳でなければ、意味がない、つまりそうした緊張関係に耐えることで誰しも詩行を紡ぎ出して来たはずだと思い到ったからである。17頁の「異界」は今回は残らざるをえないが、47頁の「彼処」も「あちら」に戻すことにした。〕

 いま一度、「ああ、ぼく、少年よ!」(13頁)に即して考えてみると、チャサールセの井戸の底、その水面におのれの姿を映してその裏側に少年が見るのは、遠い昔の幼年時代の幼い少年のぼくが、罪人の慰められぬ笑いのなかで、いま現在、同時に暮らしている姿であり、それは確かにもう一つの世界、別の世界、他の世界、他界のことではあるが、来世でも過去の話でもない、いま現在のことである。冥界や地獄を持ち出す必要もない。
古い井戸の底の水面一枚隔てて、こちらの世界とあちらの世界の、「ぼく」という少年の青春期と幼年期、双方の少年を二つながら、同時に歌ったことにこの詩の優れた点の一つがあるとすれば、むしろここにパゾリーニの詩法、その特徴の一つを見て、「他界」と書いて「あちら」などと読ませないほうがよい。
 実際、列車でゆき遇う老人の顔のなかに金髪の少年を見、少年の顔のなかに老人を見ることは、青少年期のおのれの、抜きがたい偏執の一つであった、と長編小説第一作『不純行為』にはあるが、〔前掲『愛しい人』六十一頁参照。ただし、該当の箇処は、記憶とは記述がやや異なっていたので、次に引用する。〕
 《なんと絶望しきっていたことか! あのころぼくにはとりわけふたつの、実をいえばごく詩的な偏執があったけれども、第一の偏執は、息子たち(金髪の少年だと仮定して)のなかに父親たち(二十年前の金髪の少年、ぼくが眼差しで愛撫することの決してかなわなかった少年)の笑いを認めようと躍起になることにあった。第二の偏執はだれか見知らぬ年寄りたちを前にじぶんの姿を見ることの驚愕であった……》
 むしろここでは本書(増補)中の詩篇「五月の夜」(41頁)を見るとよい。
「ああ、ぼく、少年よ!」を映す鏡の裏側には「五月の夜」がある。そしてもちろん「スウィット・フールラーナ」(43頁)を見なくては……

8.前の「付記」1、2、3で取り上げた三篇の詩を含む本詩集中の詩群のいずれもが、いわゆるエーピコ・リーリカ、叙事叙情詩の流れを汲むことは明らかだろう。パゾリーニはこれらの詩群の多くの推敲を、本詩集の発表後も継続して、前掲の詩集『最良の青春』や、その非業の死の年、彼が撲殺された一九七五年十一月に出版された詩集『新しい青春』に収録している。
 ことに後者、エイナウディ社から出版された『新しい青春』においては前者『最良の青春』をその第一部に収めてフリウーリ語詩群の最高水準を示すと同時に、第二部においては乾いた詩法でそのフリウーリ語詩群を暗く苦く一変させている。
これらを単に今日の改詠詩palinodia群と呼ぶだけでは済まされない。なぜなら、「暗く苦く一変」したのはパゾリーニの詩だけではない、民衆の生活と文化を「暗く苦く一変」させた新資本主義下のイタリアおよび世界という現実があるからだ。パゾリーニはこの現実との闘いの半ばに斃れて、詩人の使命とは何かを、身をもって世に示したとも言える。

 数々の対話詩や物語詩、そして民衆詩から成るフリウーリ語詩群は、成熟したパゾリーニのイタリア語詩の大きな流れのなかにあっても、ひときわ燦然と輝いている。
 本詩集はそのフリウーリ語詩群の端緒であり精華である。

                花野秀男

 一九九八年初雪の朝、多摩平にて






カザルサ詩集


ピエール・パーオロ・パゾリーニ

花野秀男訳



      Poesie a Casarsa di Pier Paolo Pasolini

        l'edizione giapponese
         curata e tradotta
          da
         Hideo Hanano
          1998

目次
 Ⅰ カザルサ詩集       
献詩  11           
死んだ少年  12        
国境にふる雨  12      
欺された女  13       
ああ、ぼく、少年よ!  13   
マンズーの《ダヴィデ》に寄せて  14
美少年の連祷  14       
弟に  15          
ディーリオ  17       
逃亡  17          
ある帰郷に寄せて  19     
アルタイル  20       
鐘の歌  21         
 Ⅱ オリーヴの日曜日  22 
 原註  28 
       
(増補)          
 Ⅲ ハレルヤ        
ハレルヤ  29        
二月  32          
ある少女に  33       
ロマンチェリッロ  34
 Ⅳ フリウーリ舞曲
ある死者の歌  36
ロザーリの祈りに  40
五月の夜  41
スウィット・フールラーナ  43
ナルキッソスのダンス  45
ナルキッソスのダンス  46
ナルキッソスのダンス  47
ナルキッソスの田園詩  48
怪物か、それとも蝶か?  49
Ⅴ コラーンの遺言
盗まれた日々  51
ほんもののキリストが来て  52
コラーンの遺言  53
美しい若者  56
〔脚注〕  57










    

  カザルサ詩集






献詩


ぼくの故郷の水の泉。

ぼくの故郷の水よりも冷たい水はない。

いなかの愛の泉。





   死んだ少年




夕べの光きらめき、堀に
水はみなぎり、孕み女が
野辺を歩みゆく。

ナルキッソス、あたしはおまえを覚えていてよ。
弔いの鐘が鳴ったときに、おまえの肌は
茜色に染まっていた。




国境にふる雨


幼い少年よ、空がふる
おまえの故郷の竈のうえに、
薔薇と蜜のおまえの顔のなかに
すっかり緑に覆われてそのひと月が生まれる。

太陽が─最後の日に─
桑畑のうえの不吉な翳を
燃やし烟らす。国境で
たった独りおまえは死者たちを弔ってうたう。

幼い少年よ、空が笑う
おまえの故郷のバルコニーのうえで、
血と憎しみのおまえの顔のなかで
すっかり蒼ざめたそのひと月が死ぬ。




     欺された女



鐘の音が桑畑ごとに震えてゆく。
いつまでも鳴りやまない。女たちはしゃべる。
死者たちの陰のなかで、ただ独り口を噤む
息子に欺された女が。





ああ、ぼく、少年よ!


ああ、ぼく、少年よ、雨が
土塊につかせる
溜め息の匂いから、思い出が
生まれる。青々とした草地と用水の
思い出が生まれる。

チャサールセの井戸の底で
─露の牧場にも似て─
遥か昔の時に戦く。
あちらでは、遠い昔の幼い少年の罪人の
ぼくが憐れみで暮らしている、

慰められぬ笑いのなかで。
ああ、ぼく、少年よ、晴れた
夕べに影が赴く、
昔の城壁のうえに。空には
眩いばかりの光線。




  マンズーの《ダヴィデ》像に寄せて


若者よ、疲れから、きみの故郷は蒼ざめる、
きみはしっかり首を捩って、
唆されたおのれの肉のなかで耐えている。

きみは、ダヴィデだ、四月の日の牡牛みたいに、
笑いかける幼い少年にその首を抱えられて、
優しく死へと歩みゆくというのに。









  美少年の連祷




      Ⅰ

あの蝉が冬を呼ぶ、
──蝉たちが歌っているときには
全世界は不動で明るいのに。

あちらでは空はすっかり晴れわたっている!
──きみがこちらに来たら、なにが見える?
雨、稲光、地獄の悲歎。


   

ぼくは美少年だ、
一日じゅう泣いている、
ぼくのイエスよ、お願いだから、
ぼくを死なせないで。

イエスよ、イエスよ、イエスよ。

ぼくは美少年だ、
一日じゅう笑っている、
ぼくのイエスよ、お願いだから、
ああ、ぼくを死なせて。

イエスよ、イエスよ、イエスよ。


    

今日は日曜日、
あすは死ぬ、
今日こそぼくは
絹と愛の服を着る。

今日は日曜日、
牧場じゅうを冷たい足して
少年少女がとび跳ねる
靴はいてかろやかに。


ぼくの鏡に歌いかけては、
歌いながら髪を梳く……
ぼくの眸のなかで
罪人の悪魔が笑う。

ぼくの鐘たちよ、鳴りひびけ、
やつを追いはらっておくれ、
《鳴りましょ、けどなに見てるのよ、
うたいながら、あんたの牧場で?》。

ぼくは見つめる
夏たちの死の太陽を。
ぼくは見つめる雨を、
葉っぱを、蟋蟀たちを。

ぼくは見つめる
ぼくが子供だったころのぼくの身体を、
悲しい日曜日を
──みな永遠に過ぎさった。


《今日はあんたに
絹と愛の服を着せる、
今日は日曜日
あすは死ぬ》。





    弟に



弟よ、おまえが正しかったよ。あの晩──ぼくは思い出す──おまえは言ったんだ、
《兄さんの手のひらには愛と死の徴があるね》、と。
あんなにも、おまえは笑っていたけど、以来ぼくはずっと確信していた。いまはただギターの奏でる調べにまかせてこの日を過ごしておくれ。






   ディーリオ



ディーリよ、おまえは見る、アカシアの梢に
雨が降るのを。犬たちが吠え声を震わせる
青々とした平地に。

坊や、おまえは見る、ぼくらの身体のうえに
失われた時の
冷たい露を。









    逃亡



はや山腹はひらめく稲妻のまっただなかだ。全裸の平地に、つまり
真南にぼくはひとりぽっちだ。
はや山肌に雨がふっている。最後の晴れ間に、つまり宵に、ぼくはひとりぽっちだ。風にうちひしがれた牧場から、杜松の匂いが鼻を刺す。逃げよう、異界の時だ──マリーア!と、燕が叫ぶ。









ある帰郷に寄せて







娘さん、なにしてるの
火のそばでまっ蒼になって、
冬の日の沈むころ
かき消えてしまう木みたいに?
《あたしは古い枯れ柴を燃やす
すると、黒い煙がのぼって
わかるのよ、平野では
暮らしむきがらくだって》。
けれど、芳しいおまえの火を嗅ぐと
ぼくはおのれの声を失い、
いっそ風となって
落ちてそのまま動かずにいたくなる。


ごらん、清らかなあの道を
ぶどう畑と桑畑をぬっている、
夕べがもどってきた
きみの旅を優しくするように。


旅のとちゅうできみは出遇うだろう
ぼくの遠い故郷に。
挨拶してくれ、泣き声が絶えたなら
ぼくらはもうもどらないのだから。


ぼくの旅は終わった。
ポレンタの甘い香りと
牡牛たちの悲しげな鳴き声。
ぼくの旅は終わった。
《こっちへ、きみはぼくの家に泊まればいい、
でもぼくらの暮らしは ──
流れる水にも似て喰いつくしてしまう
きみの知らないなにもかもを》。


ぼくの村では正午に
祭りみたいに鐘をうち鳴らす。
静まり返った牧場のうえを
ぼくは鐘のもとへと赴く。


鐘よ、おまえは昔とちっとも変わらない
なのにぼくは苦しみを負って
おまえの声のもとへ帰ってきたよ。
《時は移ろわず、
父親たちの笑顔は
──枝々に雨がとまるように──
子供らの顔のなかに宿っている》。











  アルタイル




アルタイル、憐れみの星よ、
つらい思いに目が覚めるとき、
ぼくはきみを雲間にさがす。
だからきみ、ぼくを見まもっておくれ。

時は眠りではない、
回復するような。だから、目を覚ませ、
ぼくらに歓びに牧場をとび跳ねさせておくれ!
そうして、アルタイルよ、きみの光は

数えきれない星屑のきらめきに
輝く。それも、たったひと
季節だけではない。そこには戦いているのだから
ぼくの青春の時が。

アルタイル、天の愛しいトレモロよ、
ぼくがきみを雲間に探すと、
ヴェールが降りてくる。あそこに
ぼくを灼く古代の眼が

──いまでは──もう憐れみなしに。



〔*訳注。鷲座の首星、晩夏の中天やや南寄りに輝く牽牛星、彦星のこと。〕








   鐘の歌



夕闇がどの泉のうえにもおし寄せるとき
ぼくの故郷は狼えたいろにつつまれる。


ぼくは遠くにあって、思い出す、故郷の蛙たち、
月、蟋蟀たちの悲しいトリルのことを。


ロザーリの鐘が鳴り、牧場ごとにその音は衰えてゆく。
ぼくは鐘の歌に曳かれゆく死者だ。


よそ者よ、ぼくが平地のうえを優しく飛ぶからとて、
こわがるな。ぼくは愛の魂なのだから、
はるばる故郷へ帰りゆく霊なのだから。













   オリーヴの日曜日



そして心が最後の鼓動によって
       影の壁を崩しおえたそのときに、
主のもとへ、ぼくを連れゆくために、母さん、
      あなたは昔と同じように手をかしてくれることだろう。
                              ウンガレッティ




母さん、ぼくは肝をつぶして見つめる
風が、悲しそうに死んでゆくのを
キリスト教徒として生きた
ぼくの二十年間のかなたに。

夕暮れ、濡れた木々、
叫んでいる遠い少年少女、
母さん、これが故郷だよ
ぼくの通りすぎてきたばかりの。



どうしてあたしのお腹からは
生まれてこなかったのだろう
あたしの祝福された息子を
思い出してなげく涙が?

  涙よ、あたしはおまえの母となろう、
  すっぽり清らな衣裳をきせて、
  そして晩祷の失われた歌を
 おまえの父と呼ぼう。

そしてなろうことならあたしは
故郷よ、おまえの母ともなろう、
すっかり昏い緑の牧場、
竈、そして昔の城壁の。

あたしの息子よ、おまえのもとへ
おまえの母は往かれぬのかい、
涙に射す光となって、
故郷に轟く雷となって?



(オリーヴをかざす少年の衣裳をまとって)
 復活祭正午の鐘が鳴りわたる。

固い葉っぱに、白いパン。

  若い衆、オリーヴはいかが?

  復活祭のよく晴れた宵。

  涼しい用水に、とまった鳥。

  オ リ ー ブ、アウリーフ、アウリーフ。



アウリーフの侍者さん、
まるで緑の葉枝にひそむよう
 きみは嬉しそうに顔をかくして
 ひどく恥ずかしがっているけれど、
 走ってきてぼくに葉枝をおくれ!

  けれど、きみの母さんはきみを生き
  顔のなかにはその苦しみが、
  ──故郷は血の気を失い
  そしてきみ、きみはひどく震えている。



(なおもオリーヴを翳す少年の衣裳を纏って)
 いいえ、にいさん、ぼくは震えていない。
 葉っぱのあまい歌声に
ぼくといっしょに、じっと不動の空が
ぼくたちの笑い声のうえに光り輝く。

  弱りはてて鳥が歌い、
  うろたえて煙が歌い、
  燈火のもと恍惚として歌う、
  昼はギターにあわせて。



なんておしゃべりだ! 一本の葉枝、
それだけを、きみに求めたのに。
はっきりとぼくに聞こえる雷は
あまく悲しくずうっと震えているのだから。



(相変らずオリーヴを翳す少年の衣裳を纏って)
  にいさん、雷は震えない。
  ごくかすかに復活祭の鐘の音が
堀のへりづたいに消えてゆく。

  ぼくたちにはキリストが
  つらい物事を限られた、
  だからぼくらの周りには歌ばかり。



  ぼくは知らないあのものを
  キリストが血に染めたというけれど。
  祈りをぼくは知らないのだから、
  まわりに歌など聞こえない。

  おのれの声のなかに失われ、
  おのれの声ばかりをぼくは聞き、
  おのれの声をぼくは歌う。



(相変らずオリーヴを翳す少年の衣裳を纏って)
 そしてキリストにおける兄弟たち!



         空!



(相変らずオリーヴを翳す少年の衣裳を纏って)
  雨!



    歳月!



(相変らずオリーヴを翳す少年の衣裳を纏って)
      身体たち!



あまい四月!



(相変らずオリーヴを翳す少年の衣裳を纏って)
     女たち!



ただぼくの声ばかり。



(再び亡霊となって)
        ああ、キリスト。



永遠は死にゆく
昏い牧場に
悲しい声を
ぼくは吐く。

その声は止まず
喚く空にも、
吹き荒れる風にも
  遠くへ往かない。

 くる夜もくる夜も
  声が死ぬのをぼくは聞く、
  昔の城壁に、
  昏い牧場に。



息子よ、おまえの声だけでは足りない
  おまえが父親たちと並ぶには。

  あたしはおまえの母さんだよ、死んだけど、
  あたしはおまえの胸のなかに生きている。

  だから、あたしが言うとおり、
  息子よ、あたしの後からくり返すのだよ。


(唱える)と子(くり返す)
キリストよ、わたしはあなたが造られたままのわたしです。
  歌うも泣くもあなたにあっては同じひとつのこと。
  キリストよ、あなたの十字架にわたしをはりつけ磔にしておくれ。
  わたしはあなたの癒しをえられないのだから。



  昏い火が降りそそぐ
  ぼくの胸のなかに。
  それは太陽ではなく
  そして光りではない。

  光明なしの日々が
  いつまでも通りすぎ、
  ぼくは生身の、
  少年の肉体のままだ。

  もしも昏い火が
  ぼくの胸のなかに降るのなら、
  キリストよ、あなたの名は、
  そして光りなしだ。









原註

 本詩集のフリウーリ語の慣用語法は純正のものではなくて、タッリアメーント川右岸で話されるヴェーネト方言に優しく漬かっている。そのうえ、韻律や詩的措辞に合わせるように、ぼくが腕力を揮ったものも、少なからずある。
 さらにフリウーリ人ではない読者にはある種の語、たとえば
 《imbarlumi`de》、《sgorla^》、《svampidi`t》、《tintinul^》、《rampi`t》、《mi`rie》、《alba`de》、《tre`mul》、などの語にはしばし、佇んでほしいものだ。なぜなら、そうした語は、ぼくはイタリア語のテキストで、実にさまざまに翻訳してはみたが、実際には、翻訳不能だからである。*


 訳註* それをじかに日本語に翻訳する際の難しさは当然か、あるいはそれ以上で、試みるだけでも無謀なことであったかも知れない――そんな無謀を敢えて試みるなんて、やはりパゾリーニが眼前に開示して見せたフリウーリ語詩の音感の素晴らしさに、一読、虜になってしまっていたのだろう。それぞれ「光きらめき」「震えてゆく」「かき消えてしまう」「トリル」「全裸の」「真南に」「晴れ間」などと、散々工夫はしてみたが結局、難のより少ない訳語に落ちつく傾向にある。結果、パゾリーニ自身による脚註のイタリア語訳、そちらからの日本語訳のほうに、むしろフリウーリ語詩の語感が投影されている場合もままある。詳しくは巻頭、筆者付記を参照されたい。








(増補)







      

 ハレルヤ








        ハレルヤ


         Ⅰ


     ハレルヤ、ハレルヤ!
        四月の日、
       金翅雀が死んだ。
       幸いなるかな
       もう笑わぬ者、
     そして鳥たちと歌声が
     天へと彼を連れゆく。


         Ⅱ

        いまは
       おまえは
      ひかりの子。
 なのにぼくはこの地上におまえの母さんと
     暗闇のなかにいる。


         

       金髪の少年よ
  おまえの母さんは陽射しのなかで
      少女に帰った。
        底に
      その心はあって、
     川原のまんなかで、
     子雀の声となった。


         

      ぼくを夢に見ろ、
    弟よ、ぼくを夢に見ろ。
     ぼくが身じろぎすると、
       ひと吹きの風が
  サレットの柳の葉をそよがせる!


         

    日曜日から月曜日まで
   草一本も変わらなかった
      このあまい世界のなかで!


         

       鐘たちが
     別の空で鳴りひびく
      そして風と木々が
        ささやく
     おまえの身体のうえで。
  でもだれもおまえを覚えていない。
    おまえは欠け落ちている
        世界から
 おまえの母さんの涙だけがいっしょに。


         

        時が
 おまえの胸に触れる、オリーヴの葉枝で
        牧場に
     太陽が触れるように。


         Ⅷ

   蟋蟀たちよ、ぼくの死を歌え!
    歌え声高に野辺の果てまで
       ぼくの死を!















        二月






   葉が落ちてあったのは大気、
   用水路、掘割、桑畑……
   遠くに見えた
   澄みきった山々の麓の村々。

   遊び疲れて草のうえに
   二月の日々に、
   ぼくはここに坐っていた、冷えきった
   緑の風に濡れて。

   ぼくは夏に戻ってきた。
   そして、野辺のまっただなかで、
   葉また葉のなんという神秘、
   そして何年が過ぎ去ったことか。

   いま、また二月、
   用水路、掘割、桑畑……
   ぼくはここ草のうえに坐って
   何年もがむだに過ぎ去った。










      ある少女に






   遠くで、きみの肌は
   薔薇によって白く染められて、
   きみは一本の薔薇だ
   生きているけど話さない。

   けれどもきみの胸のなかに
   ある声が生まれたときに、
   きみは黙って運ぶことだろう
   きみもまたぼくの十字架を。

   黙って、屋根裏部屋の
   床のうえを、階段のうえを、
   菜園の土のうえを、
   厩舎の埃のなかを……

   沈黙の小径に迷って
   すでに失われた心のなかに
   言葉たちを抱きしめて
   黙って家のなかを。












   ロマンチェリッロ





       

 息子よ、今日は日曜日、
 そして鐘を長く連打している、
 けれどあたしの心はまるで
 葉の落ちる枝のよう。

 遠くのパーゴラの下で
 チェンチが歌うのが聞こえる
 まだあの子が生きていたときに
 歳月の蕾のなかに。

 ああ、坊や、あたしの心は
 フリウーリの鄙びた田舎町に埋もれてる。


       

 あたしの一生は
 過ぎ去った。
 あたしは嬢ちゃんだった、
 そしておまえは死んだ。

 ああ、なぜにおまえは戻ってくるの
 いまごろ眠りのなかに
 何年ものあいだ
 忘れていたというのに?

 あたしの一生は
 過ぎ去った。
 おまえは坊やだった、
 あたしたちは夢をみる。


       

 牧場は白み
 空は暗く、
 アヴェマリアの鐘の音に
 平安はない。

 ありとある悪のなかでも
 あたしが思い出すのは、
 睫毛のあいだの光り
 そして胸のなかの闇、

 恐怖、愛さぬこと、
 いまもなお見ておいでか
 この少女を、
 主の御眼は?









(増補)






        

  フリウーリ舞曲






      ある死者の歌


        Ⅰ


  雪は小さなぶどう畑をおおって
     空色の用水堀が
太陽に曝されたチャルニャ山地の姿を映している。
    ぼくは死者たちの
     影からもどる
  今日千九百四十四年一月八日に……
  そして少年たちの叫ぶのが聞こえる。


        

    だれがまだ暮らすというのか
      聖ズアーン街道の
     あの長い壁のうしろの
  凍った大気のなかに失われた日陰に?
      鐘が鳴る。
     ぼくは死んだ。


        

    ああ、厩舎のかたち
     雪で白い屋根
   それに麦藁が空色の大雲を背に、
     石積みの壁をおおう
       乾いた葦……
      ああ、一条の光が
    庇のしたの砂利のうえに……


        

   そしてぼくはそとに佇む
      雪のうえに。
  なかではスティエーフィンが
   牝牛たちの世話をしている、
  なかではスティエーフィンが
      生きていて、
  なかではスティエーフィンが
     葦を剪っている
      切株のうえで、


  なかではスティエーフィンが
    温まって疲れて、
    葦を剪っている、
なかではスティエーフィンが、生きていて、
  片膝をまぐさ秣のうえに押しつけている!


        

 お聞き、スティエーフィンよ、お聞き、
何百年以上もまえか、それともほんの一瞬まえにか
  ぼくはおまえのなかにいた。
 なかにであって、そとにではない、
   膝のうえに顎をのせて
 ぼくは膝を感じ、秣の匂いを嗅いでいた。
   今日ぼくはここにいる。
  そとにであって、なかにではない、
    ぼくは膝を感じないし
   ぼくの身体の熱も感じない。
     今日という日は
  ぼくがあってはならない日だった!


        

       神よ、
      扉をあけ
     斧を投げだし
    足を叩きあわせて
   疲れきって台所にはいる。
       雪が光る
 たったひとりで空色の大雲のしたで。


        

       神よ、
      扉をしめ
     台所に閉じこもる。
  ああ、スティエーフィンの身体よ
なにをするのか、あそこのなかで? あと少しの
     人生が過ぎさった。
ぼくはその理由をいえる……ぼくは見た、虚ろな
  厩舎を、地面に投げだされた斧を、
   そして膝に押しつぶされた秣を……
  あそこにおまえはもういなかった。


        

       神よ、
    だれが歌うのか?
   乙女がたったひとりで、
しばしのあいだ、そしてあとはなにもない。
  その声は雪のなかにとどまる
   目を眩ませる白い菜園の
    鉄条網のうしろに。


        

そしてあすは見るだろう、たったひと筋の雪が
   土手づたいに光っているのを。
彼らは見るだろう、ヴェルスータ、チャサールサ、サン・ズアーンを、
    虚ろな野良の先に、
   空色の用水路の先に、
  軽やかな太陽のもとに。



















   ロザーリの祈りに





   土のなかでは肉は重い
   空のなかでは光になる。
   哀れな若者よ、目を伏せるな、
   腰のなかで影が重かろうと。

   軽やかな若者よ、笑え、おまえは、
   おまえの身体のなかで
   熱くて暗い土と
   そよ風と、澄んだ空を感じながら。

   貧しい教会のまっただなかでは
   おまえの闇は罪に満ちている
   だがおまえの軽やかな光のなかでは
   無垢な者の宿命が笑っている。














    五月の夜





     Ⅰ


おまえの衰えた目のなかに
血走った皺の
網のなかに
ぼくは見ない、過去を。

見るのはただ暗い歳月と
忘れられた夜々と
日々のない時のなかに
埋もれた情熱ばかり。


     

おまえの身体はとどまっている
日溜まりのあそこ、ポーチに
幸いなる数日間
死の蕾に満たされながら。

おまえの身体は、けれどもおまえ、老人よ、
おまえは誰なのか、そこで、魅せられたかのように、
凍った涙みたいに映る
そんな目をして?


     

いえーっ、白い泉の灰色の
水のなかのおまえを見るがいい、
あそこのしたの底の底で
ひとりの少年が歌っている。

榛の木林のまんなかで歌っている
おまえの息子みたいに美しい少年、
その映る姿が輝いている
静かな用水の水面に。




宿命なしの人生よ、
身体とともに運びさられた。
父親となった息子によって
竈から未耕地へと。

キリスト教徒の人びとよ、身を屈し、
このまったき静けさのなか、
十字架より降り来る、
かぼそい声を聴け。














  スウィット・フールラーナ




      Ⅰ

少年が鏡のなかをのぞきこむ、
彼の眸が黒ぐろと笑いかえす。
気がすまずに裏側をのぞく
身体かどうか見にその姿を。

でも見えるのはただ滑らかな壁か
それとも意地わるな蜘蛛の巣か。
陰気にまた鏡のなかをのぞきこむ
彼の姿を、ガラスのなかの仄かな光を。


      

ぼくは少年だ、ぼくは鏡のなかをのぞきこむ
すると思い出がぼくに軽やかに笑いかける、
青あおとしたぼくの人生の思い出が
黒ぐろとした岸の草地みたいに。

けれど気がすまずに裏側をのぞく
ぼくのどこか痛むのか見に。
仄かな光が、ある、仄かな光、
ただ仄かな光の白だけがある……


  

そこ、ガラスの裏側で、炎をあげて燃える
死んだ野辺のまんなかで
光の故郷のなかで、ひとつの鐘が
近い心のなかで、遠い時のなかで。

光はぼくの生命だ、そして鐘をうち鳴らす
祭みたいにぼくのために裸の空に、
光はぼくの乙女の母だ、そして鐘をうち鳴らす
祭みたいにその澄んだ揺り籠のうえに。


  

鏡の裏側でぼくの乙女の母が
乾いた小径で遊んでいる。
聖母の目草が匂う
無花果と樹脂も新たな樫のあいだで。

珊瑚の首飾りして
土手みちをうれしそうに駆けさってゆく
千九百二年の人生の仄かな
光のなかを、溜め息のなかを……





訳註*  ヴーイ・ダ・ラ・マドーナ/オッキ・デッラ・マドンナ/ノンティスコルダルディメ――つまり勿忘草、別名。












 ナルキッソスのダンス





ぼくは愛で黒ぐろとしている
少年でも鶯でもなく
すっかり全体が花みたいに
意志のない渇望だ。

菫たちに囲まれて起きながら
夜は明け染めていたが、
滑らかな夜のあいだに
忘れた歌をうたっていた。
おのれに言った。「ナルキッソスよ!」
するとぼくの顔をした妖精が
草地を暗くした
その巻き毛の明るさで。








    ナルキッソスのダンス





ぼくは菫ではんのきだ、
黒ぐろと青白い肉のなか。

ぼくは盗み見る、陽気なこの目で
ぼくの苦い胸のはんのきと
ぼくの巻き毛が怠惰にも
岸辺の太陽に光り輝くのを。

ぼくは菫ではんのきだ、
黒と薔薇色の肉のなか。

   そしてぼくは眺める、菫が赫くのを
   重たく心地よくぼくの柔らかい
   蝋燭の明かりのなかに
   桑の木の小陰で。

   ぼくは菫ではんのきだ、
乾いて柔らかい肉のなか。

   菫はよじってその明かりを
   柔らかくはんのきの固い横腹に
   そして青い烟に姿をうつす
   ぼくの貪欲な心からわいた水の烟に。

ぼくは菫ではんのきだ、
冷たくて生温かい肉のなか。










  ナルキッソスのダンス







   ああ、ぼくの肩よ、
 ああ、ぼくの青ざめた
 顔よ、菫の黒とともに、
 竈のそばで
 あるいは厩舎のなかで、
 ひとりでに輝くな
 サーイニスやブローイリでのように……

   あちらでは太陽が
 (大蝋燭が
 清純な愛の死ゆえの)
 ぼくの黒い眸のガラスを
 燃えあがらせる
 花みたいにおどおどと。








  ナルキッソスの田園詩


  昨日、祭の晴れ着をきて
  (けれど金曜日だった)
  ぼくは出かけた、柔らかな
  牧場と灼けた野辺へ。
  ぼくは両手を入れていた
 ポケットに…… 十四歳!
  熱い身体の美神!
 ぼくはおのれの腿を触っていた
ズボンのくっきりした折り目のしたを。

  ある声が歌っていた
  ポプラ林の木蔭で。
  ぼくは叫んだ。「ほおい!」
  仲間かと思って……
  ぼくはあそこの近くまで行った
 すると金髪の少女だった……


  いいや、若い女だ
 緋色のシャツを着て
霧に覆われてたったひとりで草を摘んでいた。

  ぼくは隠れてぬすみ見た……
  そして彼女の場所にはぼくがいる。
  ぼくは見る、ポプラの枝のしたに
  根っこのうえに腰をおろしたおのれを。
  飼葉槽の底みたいに漆黒の
 ぼくの母さんの眸を、
 真新しい服のしたで
 光っている胸を、
そしておなかのうえにおかれた片手を。







  怪物か、それとも蝶か?





     Ⅰ

晴天の一頭の蝶だ
ぼくの胸の空のなかを舞っている。
影ひとつない天上の蝶が
空色の静脈の闇のなかを舞う。

いいや、晴天の一匹の怪物だ
そしてかれの天上は毒だ。
ぼくの目のなかで凍りつく光が
熱い、かれの裸の眼のまえで。


     

いいえ、乳色の蝶だ、
ぼくの夏のなかの夏の真白。
その快活さで彼女だとぼくは気づく、
とまっても飛びさっても快活な彼女だと。

いいや、ぼくのなかでどんどん大きくなる怪物だ
見知らない心のなかにひろがる黒雲のように。
ぼくにはほんの一瞬姿を見せて……
それから姿を消してぼくを驚かす。


     

いいえ、ビロードの蝶だ
少年のぼくが菫色で画いた。
ぼくの菫たちのあいだに菫色にとまる
変わらない時の膝のうえに。

いいや、労苦の怪物だ、
諦めるときにとどろく叫びだ。
なにもかもに反対し、いっさいのそとにいて、
少年のぼくの花という花を汚してゆく。


     

いいえ、美神の蝶だ。
ぼくの胸から腿へと飛ぶ。
彼女とならぼくは同じように暮らせる
たとえ彼女がぼくのそとへはけっして出てゆかなくても。

いいや、希望の怪物だ
チャサールサの絶望した虚ろのなかに棲む。
かれはぼくを大人にしてくれない、けっして体験しなかった
のではないかという露わな疑いゆえに。










(増補)





        Ⅴ


  コラーンの遺言





    盗まれた日々



ぼくら、貧しい人間には、わずかな時しかない
青春と美神の時は。
世界よ、おまえはぼくらなしにやっていける。

生まれついての奴隷、それがぼくらだ!
けっして美しかったことのない蝶たち
時という繭のなかで死んだぼくら。

金持ちはぼくらに時を支払わない。
ぼくらの父親やぼくらによって
美神から盗まれた日々を。

時の断食に終わりはないものか?











 ほんもののキリストが来て





ぼくは夢をもつ勇気がない。
菜っ葉服のブルーとオイル汚れ、
ほかになにがあるものか、工員のぼくの心のなかに。

工員よ、はした金のために死んでいる、
心よ、おまえは菜っ葉服を嫌った
そしておまえのもっとも真実の夢を失った。

夢をもった少年だった、
菜っ葉服みたいにブルーな少年は。
工員よ、ほんもののキリストが来て、

おまえにほんものの夢をもつことを教えるだろう。















  コラーンの遺言







あの一九四四年という年に
ぼくは作男をやっていた、ボテールス家の。
あの年はぼくらの聖なる時だった
義務という太陽に灼かれて。
黒雲が竈のうえにたれこめて
白い染みが空のなかにひろがって
恐ろしくもあり楽しくもあった
鎌と槌を愛するということは。

ぼくは十六歳の少年だった
心は粗く無軌道で
目は灼熱した薔薇みたいで
そして髪は母さんゆずりの髪だった。
ぼくは始めた、ボッチェ・ゲームを覚え、
巻き毛に油を塗り、祭ごとにダンスに出かける。
黒ぴかの靴! 薄い色のシャツ!
青春よ、よそ者の土地よ!

あのころ蛙つりに出かけた
夜中にカンテラと銛をさげて。
リーコは血に染めた、葦原と
草むらを、赤いカンテラで
骨を凍らす暗闇のなかで。
シル川では小魚が
何千匹も淵で見つかった。
ぼくらは大声を立てずにゆっくりと進んだ。

ポプラの小森のなかで
食べおわるやすぐに集まった
少年たちの一団全員が、
そしてそこでぼくらはしばしば悪口を叩いた
まるで鳥たちが囀るかのように。
そのあとぼくらはカード遊びをした
とうもろこし畑の小陰で。
母さんと父さんは亡くなっていた。

日曜日には、粗野な心の男たちは、
自転車にのって走りさり
値うちのない魅惑の館へおもむいた。
ある晩ぼくはネータを見かけた
小森の木漏れ日のなかを
牧場へ牝羊をつれゆく彼女を。
その小枝をふりふり彼女は
絹みたいな大気をゆり動かしていた。

ぼくは草と堆肥と
ぼくの熱い革の胸のなかで
あきらめた汗の匂いがした。
そして履いたズボンは
脇腹で、夜明けから忘れられ、
欲望を隠さなかった
まどろんだ明け方に膨らみ
雨の涼気なしの夜々に膨らんだ欲望を。

ぼくは初めて味わった
十三歳のあの少女と
そして熱情に漲って逃げだした
仲間に話して聞かせるために。
土曜だったのに、犬一匹
町なかにはいなかった。
セラーンの家が燃えていた。
家並みの明かりはみな消されていた。

広場のまんなかにひとりの死者が
凍った血溜まりのなかに倒れていた。
まるで海みたいに人けのない町なかで
四人のドイツ兵がぼくを捕らえて
哮り狂って喚きながらぼくを連れてゆき
物陰にとめてあったトラックに小突きあげた。
三日後にやつらはぼくを縛り首にした
居酒屋の桑の木に。

ぼくのこの姿を遺贈する
金持ちたちの良心に。
虚ろな眼窩と、ぼくの粗野な汗の
匂いをはなつ衣服とを。
ドイツ軍に対してぼくは恐れはしなかった
おのれの青春を漏らすことを。
貧しい人びとの無辜と
勇気と、苦しみと、万歳!













   美しい若者



美しい若者が   ティリメーントの川岸にたたずみ
小犬がほえていた   かれもうれしそうに。
そこに   パローンがとおりかかる。  「おーいおい、美しい若者よ、
百フランクスはらうぞ   おまえのその陽気なこころに。」
「ふい、はい、パローンさま、   百フランクスならさしあげましょう、
ぼくはやっぱり陽気でしょうよ、   もう笑わなくっても。」
七ヵ月たって   美しい若者が
ティリメーント川の岸に立って、   小犬は丸くなっている。
そこに奥さまがとおりかかって   見る、彼の美しい巻き毛が
太陽にきらめいて   ナルキッソスの花のようなのを。
「おまえのその黄金色の巻き毛を、   あたしにくれるなら、
美しい若者よ、おまえに   仕事の口をせわしてあげよう。」
「奥さま、みんなどうぞ、   ぼくらは貧乏人だから
巻き毛なんかなくったって   ぼくらはやっぱり平気です。」
そしてすっかり満足して彼は   ティリメーントの橋へゆき
背中にしょって運ぶ   あの大きなセメントのブロックを。
七ヵ月たって   橋が完成し
若者はこころのなかで   いっそう傷ついていた。
「なにをしているのだね、ここトリエーストで、  内気な美しい若者よ?」
「ぼくは失業して   おのれの十字架を背負っている」
「おまえの健康をおくれ、   仕事をあげるから」
「ぼくの健康をとってくれ、   やっぱり食べなくてはならないから」
哀れな鐘よ、鳴りひびけ、   アイマリーアの鐘よ、鳴れ、
若者が帰ってくる   憂いに満ちて。
哀れな鐘よ、鳴りひびけ、   夜明けの鐘よ、鳴れ、
いまはもう年老いた   あの美しい若者は。



 訳註* むろん、 パローン/パドローネは世にいう旦那、親方、地主、資本家、有力者。



フリウーリ語詩からの〔パゾリーニ自身によるイタリア語訳詩の脚注〕





(11頁)献詩。――ぼくの故郷の水の泉。ぼくの故郷の水よりも新鮮な水はない。田舎の愛の泉。

(12頁)死んだ少年。――夕映えの余光煌めく暖かな宵、用水に水は漲り、臨月の女が野辺を歩みゆく。
わたしはあなたを思い出す、ナルキッソスよ、あなたは黄昏の色をしていた、弔いの鐘の鳴ったときに。

(12頁)国境にふる雨。――少年よ、きみの故郷のどの釜の上にも空が降りそそぎ、薔薇と蜜のきみの顔の中にすっかり緑に塗れてそのひと月が生まれる。
桑畑の上の不吉な翳を(最後の日に)太陽が燃やし烟らす。国境でたったひとりできみは死者たちの弔い歌を唱う。
少年よ、きみの故郷のどのバルコニーの上でも空が煌めき、血と憎しみのきみの顔のなかですっかり白茶けたそのひと月が死ぬ。

(13頁)欺された女。――鐘の音が桑畑ごとに震えてゆく。いつまでも鳴りやまない。女たちはしゃべる。
死者たちの闇のなかで、ただひとり口を噤む、息子に欺された女が。

(13頁)ああ、ぼく、少年よ。――ああ、ぼく、少年よ、雨が土から甦らせた匂いから、思い出が生まれる。用水路と青々した草地の思い出が生まれる。
 カザルサの井戸の底で─牧場の露にも似て─遥か昔の時に戦く。あちらでは、遠い昔の幼い少年の罪人であるぼくが、慰めようのない笑いのなかで、憐れみを食べて暮らしている。ああ、ぼく、少年よ、晴れた夕べに影が、昔の城壁の上に赴く。空には目を眩ませる光。

(14頁)マンズーの《ダヴィデ》像に寄せて。――友よ、疲労からきみの故郷は蒼ざめる。きみはしっかりと首を捩って、誘惑されたおのれの肉のなかで耐えている。
きみは、ダヴィデだ、四月の日の牡牛みたいに、その牡牛は、笑いかける幼い少年に首を抱えられて、優しく死へと歩みゆくというのに。

(14頁)美少年の連祷。―― Ⅰ. あの蝉が冬を呼ぶ、──蝉たちが歌っているときには全世界は不動で明るいのに。 あちらでは空はすっかり晴れ渡っている! ──きみがこちらに来たとて、何が見えよう? 雨、稲光、地獄の悲歎ばかり。
 Ⅱ. ぼくは美少年だ、一日じゅう泣いている、ぼくのイエスよ、お願いだから、ぼくを死なせないで。
 イエスよ、イエスよ、イエスよ。 ぼくは美少年だ、一日じゅう笑っている、ぼくのイエスよ、お願いだから、ああ、ぼくを死なせて。イエスよ、イエスよ、イエスよ。
Ⅲ. 今日は日曜日、あすは死ぬ、今日こそぼくは絹と愛の服を着る。 今日は日曜日、牧場じゅうを冷たい足をして少年少女が飛び跳ねる、子供靴を履いて軽やかに。
 ぼくの鏡に歌いかけては、歌いながら髪を梳く……ぼくの眸のなかで罪人の悪魔が笑う。ぼくの鐘よ、鳴り響け、奴を追い払っておくれ、「鳴りましょう、けれど何を見てるの、唱いながら、あなたの牧場で?」。
 ぼくは見つめる、夏たちの死の太陽を。ぼくは見つめる、雨を、葉っぱを、蟋蟀たちを。
 ぼくは見つめる、子供だった頃のぼくの身体を、悲しい日曜日を──何もかも永遠に過ぎ去ってしまった。
「今日はあなたに絹と愛の服を着せる、今日は日曜日あすは死ぬ」。

(15頁)弟に。――弟よ、おまえが正しかったよ。あの晩(ぼくは思い出す)おまえは言ったんだ、「兄さんの手のひらには愛と死の徴があるね」、と。あんなにも、おまえは笑っていたけど、ぼくは以来ずっと確信してきた。いまはただギターの弾く調べに任せてこの日を過ごしておくれ。

(17頁)ディーリオ。――ディーリオよ、おまえは見る、アカシアに雨が降るのを。青々とした平地で犬たちが吠え声を嗄らす。
少年よ、おまえは見る、ぼくらの身体の上に、失われた時の冷たい露を

(17頁)逃亡。――いまでは山腹は閃く稲妻の真只中だ。裸の平地に、つまり真南に、ぼくはひとりぽっちだ。
 いまでは山肌に雨が降っている。最後の晴れ間に、つまり宵に、ぼくはひとりぽっちだ。風に打ち拉がれた牧場から、杜松の匂いが鼻を刺す。往こう、逃げる潮時だ──マリーアさま!と、燕が叫ぶ。

(19頁)ある帰郷に寄せて。―― 娘さん、何してるの、火の傍で真っ蒼になって、冬の日の沈むころ掻き消えてしまう木みたいに? 「あたしは古い枯柴を燃やす、すると、黒々と煙が昇って、分かるのよ、平野では暮らし向きが楽だって」。けれど、芳しいおまえの火を嗅ぐと、ぼくはおのれの声を失い、いっそ風となって、地面に落ちてそのまま動かぬままになりたくなる。
 ごらん、葡萄畑と桑畑を縫う清らかなあの道を、きみの旅を優しくするように夕べが戻ってきたんだ。
 旅の途中でぼくの遠い故郷にきみは出遇うだろう、挨拶してくれ、泣き声が絶えたなら、ぼくらはもう戻らないのだから。
 ぼくの旅は終わった。ポレンタの甘い香りと、牡牛たちの悲しげな鳴き声。ぼくの旅は終わった。「こっちへ、きみはぼくの家に泊まればいい、
 でもぼくらの暮らしは──流れる水にも似て喰い尽くしてしまう、きみの知らない何もかもを」。
 ぼくの村では真昼にまるで祭りみたいに鐘を打ち鳴らす。静まり返った
牧場の上をぼくは鐘のもとへと赴く。
 鐘よ、おまえは昔とちっとも変わらない、なのにぼくは苦しみを負っておまえの声のもとへ帰ってきたよ。
「時は移ろわず、父親たちの笑顔は──枝々に雨が泊まるように──子供らの顔のなかに宿っている」。

(20頁)アルタイル。──アルタイル、憐れみの星よ、悲しい思いに目が覚めたとき、ぼくは
きみを雲間に探す──だからきみ、ぼくを見守っておくれ。
 時は回復する眠りではない。だから、目を覚ませ、歓びにぼくらに牧場を飛び跳ねさせておくれ! そうして、アルタイルよ、きみの光は
 数え切れない星屑の煌めきに輝く。それも、たった一季節だけではない。そこにはぼくの青春の時が戦いているのだから。
 アルタイル、天の愛しいトレモロよ、ぼくがきみを雲間に探すと、ヴェールが降りてくる。あそこに古代の眼がぼくを焼く、──いまでは──もう無慈悲に。

(21頁)鐘の歌。──夕べの帷が泉の上に落ちる時、ぼくの故郷は錯乱した色に包まれる。                         
 ぼくは遠くにあって、思い出す、故郷の蛙たち、月、蟋蟀たちの悲しいトリルのことを。
 ロザーリオの鐘が鳴り、その音は牧場ごとに弱まってゆく。ぼくは鐘の歌に惹かれてゆく死者だ。
 他所者よ、ぼくが平地の上を優しく飛ぶからとて、怖がるな。ぼくは愛の霊魂なのだから、遙々おのれの地へと帰ってゆく霊なのだから。

(22頁)オリーヴの日曜日。──子 母さん、ぼくは肝を潰して見つめる、風が、悲しそうに死んゆくのを、キリスト教徒として生きたぼくの二十年間の彼方に。
 夕暮れ、濡れた樹々、叫んでいる遠い少年少女、母さん、これがぼくが通り過ぎてきたばかりの故郷だよ。
母 どうしてあたしのお腹からは、生まれて来なかったのだろう、あたしの祝福された息子を思い出して嘆く涙が?
 涙よ、あたしはおまえの母となろう、すっぽり清らな衣裳を着せて、そして晩祷の失われた歌を、おまえの父と呼ぼう。
 そしてなろうことなら、故郷よ、あたしはおまえの母親ともなろう、すっかり昏い緑の牧場、竈、そして昔の城壁の。
 あたしの息子よ、おまえの許へおまえの母は往かれぬのかい、涙に射す光となって、故郷に轟く雷となって?
母(オリーヴを翳す少年の衣裳を纏って) 復活祭正午の鐘が鳴りわたる。固い葉っぱに、白いパン。
 若い衆、オリーヴはいかが? 復活祭の良く晴れた宵。涼しい用水に、止まった鳥。オリーヴ、オリーヴ、オリーヴ。
子  オリーヴの侍者さん、まるで緑の枝葉に潜むよう、きみは嬉しそうに顔を隠して、ひどく恥ずかしがっているけれど、走ってきてぼくに葉枝をおくれ!
 だけど、きみの母さんはきみを生き、顔のなかには、その苦しみが、──故郷は血の気を失い、そしてきみ……はひどく震えている。
母(なおもオリーヴを翳す少年の衣裳を纏って)いいえ、若い衆よ、ぼくは震えてなんかいない。ぼくと一緒の葉っぱの甘い歌声に、ぼくたちの笑い声の上にじっと不動の空が光り輝く。
 弱り果てて鳥が歌い、うろたえて煙が歌い、燈火のもと恍惚として歌う、昼はギターに合わせて。
子 なんてお喋りだ! 葉のついた一本の小枝、それだけを、きみに求めたのに。ぼくに聞こえる雷は、甘く悲しく震えどおしなのだから
母(相変わらずオリーヴを翳す少年の衣裳を纏って) 若い衆よ、雷は震えない。ごく微かに復活祭の鐘の音が、堀の縁伝いに消えてゆく。
 ぼくたちにはキリストが物事を限られた、だからぼくらのまわりには歌ばかり。
子 キリストが血に染めたあの物を、ぼくは知らない。祈りをぼくは知らないのだから、まわりに歌など聞こえない。
 おのれの声のなかに失われ、ぼくが聞くのは自分の声ばかり、ぼくはおのれの声を歌う。
母(相変わらず少年の衣裳云々)そしてキリストにおける兄弟たち!
子 空!
母(相変わらず少年の衣裳云々) 雨!
子  歳月!
母(相変わらず少年の衣裳云々) 身体たち!
子 甘い四月!
母(相変わらず少年の衣裳云々) 女たち!
子 ただぼくの声ばかり!
母(再び亡霊となって) ああ、キリスト。
子 永遠が死ぬ昏い牧場に、悲しい声をぼくは吐く。
その声は止まらず、喚く空にも、吹き荒れる風にも遠くへ往かない。
来る夜も来る夜も声が死ぬのをぼくは聞く、昔の城壁に、昏い牧場に。
母 息子よ、おまえの声だけではたりぬ、おまえが父親たちと並ぶには。
 あたしはおまえの母さんだよ、死んだけど、あたしはおまえの胸の中に生きている。
 だから、息子よ、あたしが言うとおり、あたしの後から繰り返すのだよ。
母と子 キリストよ、わたしはあなたが造られたままのわたしです。歌も悲歎もあなたにあっては同じひとつのこと。キリストよ、あなたの十字架にわたしを磔にしておくれ。わたしはあなたの癒しをえられないのだから。
子 昏い火が降りそそぐ、ぼくの胸のなかに。それは太陽ではなく、それは光ではない。
光明なしの日々がいつまでも通り過ぎ、ぼくは生身の、少年の肉体のままだ。
 もしも昏い火がぼくの胸のなかに降り注ぐままなら、キリストよ、あなたは呼ばれる、そして光なし、と。

(29頁)ハレルヤ。―― Ⅰ.ハレルヤ、ハレルヤ! 四月の日、金翅雀が死んだ。幸いなるかな、もう笑わぬ者、そして鳥たちと歌声が、天へと彼を連れてゆく。
Ⅱ.いまは、おまえは光りの子。なのにぼくはこの地上に、おまえの母さんと、暗闇のなかにいる。
Ⅲ.金髪の少年よ、おまえの母さんは陽射しのなかで少女に帰った。底に彼女の心はあって、川原のまんなかで、子雀の声となった。
Ⅳ.ぼくの夢を見ろ、弟よ、ぼくの夢を見ろ。ぼくが身じろぎすると、ひと吹きの風がサレットの柳の葉をそよがせる。
Ⅴ.日曜日から月曜日まで草一本も変わらなかった、この甘い世界のなかで!
Ⅵ.鐘たちが別の空で鳴りひびく、そして風と木々がおまえの身体のうえでささやく。でも誰もおまえを覚えていない。おまえは世界から欠け落ちている、おまえの母さんの涙だけが一緒だ。
Ⅶ.時がオリーヴの葉枝でおまえの胸に触れる、牧場に太陽が触れるように。
Ⅷ.蟋蟀たちよ、ぼくの死を歌え! 歌え声高に野辺の果てまでぼくの死を!

(32頁)二月。――葉がなくてあったのは大気、用水路、掘割、桑畑…… 遠くに見えた澄みきった山々の麓の村々。
 遊び疲れて草のうえに、二月の日々に、ぼくはここに坐っていた、冷えきった緑の風に濡れて。
 ぼくは夏に戻ってきた。そして、野辺のまっただなかで、葉また葉のなんという神秘! そして何年が過ぎ去ったことか!
 いま、また二月、用水路、掘割、桑畑…… ぼくはここ草のうえに坐って、何年もが徒に過ぎ去った。

(33頁)ある少女に。――遠くで、薔薇に白く染まった肌をして、きみは生きているけど話さない、一本の薔薇だ。
 けれどきみの胸のなかにある声が生まれたときに、きみもまたぼくの十字架を黙って運ぶことだろう。
 黙って、屋根裏部屋の床の上を、階段の上を、菜園の土の上を、厩舎の埃のなかを。
 沈黙の小径に迷ってすでに失われた心のなかに言葉たちを抱きしめながら黙って家のなかを。
(34頁)ロマンチェリッロ。―― Ⅰ.息子よ、今日は日曜日、そして鐘を乱打している、けれどあたしの心はまるで葉の落ちる枝のよう。
 遠くの葡萄棚の下で、チェンチの歌うのが聞こえる、歳月の蕾のなかに、まだあの子が生きていた頃のように。
 ああ、坊や、あたしの心はフリウーリの鄙びた田舎町に埋もれている。
Ⅱ.あたしの全生涯は過ぎ去った。あたしは少女だった、そしておまえは死んだ。
 ああ、なぜにおまえは戻ってくるの、いまごろ眠りのなかに、何年ものあいだ忘れていたというのに?
 あたしの全生涯は過ぎ去った。おまえは少年だった、そしてあたしたちは夢をみる。
Ⅲ.牧場は白み、空は暗く、日没のアヴェマリアの祈りの鐘の音に平安はない。
 ありとある悪のなかでもあたしが思い出すのは(睫毛のあいだの光、そして胸のなかの闇)、
 恐怖、愛さぬこと、いまもなお見ておいでかこの少女を、主の御眼は?

(36頁)ある死者の歌。―― Ⅰ.雪は小葡萄園を覆い、空色の用水路が太陽の光に曝されたカールニア山地の姿を映している。ぼくは死者たちの影の国から戻る、今日千九百四十四年一月八日に…… そして少年たちの叫ぶのが聞こえる。
Ⅱ.誰がまだ暮らすというのか、聖ジョヴァンニ街道の、凍った大気のなかに失われたあの壁の後ろに? 鐘が鳴る。ぼくは死んだ。
Ⅲ.ああ、厩舎の形、雪で白い屋根、それに麦藁が空色の大雲を背に、石の壁は乾いた葦に覆われて……
 ああ、一条の光が砂利のうえに、庇の下の……
Ⅳ.そしてぼくは外に佇む、雪のうえに。なかではステーファノが牝牛たちの世話をしている、なかではステーファノが生きていて、なかではステーファノが切株のうえで葦を剪っている、
 なかではステーファノが温まって疲れて、葦を剪っている、なかではステーファノが、生きていて、片膝を秣のうえに押しつけている!
Ⅴ.お聞き、ステーファノよ、お聞き、何百年以上もまえか、それともほんの一瞬まえにか、ぼくはおまえのなかにいた。なかにであって、そとにではない、膝のうえに屈みこんで、ぼくは膝を感じ、秣の匂いを嗅いでいた。今日ぼくはここにいる。そとにであって、なかにではない、ぼくは膝を感じないし、ぼくの身体の熱も感じない。今日という日はぼくがいてはならない日だった!
Ⅵ.神よ、扉を開け、斧を投げ出し、足を叩きあわせて、疲れきって台所に入る。雪が光る、たったひとりで空色の大雲の下で。
Ⅶ.神よ、扉を締め、台所に閉じ籠もる。ああ、ステーファノの身体よ、何をするのか、あそこのなかで? あと少しの人生が過ぎ去った。ぼくはその理由を言える…… ぼくは見た、虚ろな厩舎を、地面に投げ出された斧を、そして膝に押しつぶされた秣を…… あそこにおまえはもういなかった。
Ⅷ.神よ、誰が歌うのか? たったひとりの乙女が、しばしのあいだ、そしてあとはもう何もない。その声は雪のなかにとどまる、目を眩ませる白い菜園の鉄条網の後ろに。
Ⅸ.そして明日は見るだろう、たった一筋の雪が土手づたいに光っているのを。彼らは見るだろう、ヴェルスータ、カザルサ、サン・ジョヴァンニを、虚ろな野良の奥に、空色の用水路の奥に、軽やかな太陽のもとに。

(40頁)ロザーリオの祈りに。―― 土のなかでは肉は重い、空のなかでは光になる。哀れな青年よ、目を伏せるな、たとえ腰のなかで影が重かろうと。
 おまえは笑え、軽やかな青年よ、おまえの身体のなかで熱くて暗い土とそよ風、澄んだ空を感じながら。
 貧しい教会のただなかではおまえの闇は罪に満ちている、けれどもおまえの軽やかな光のなかでは、無垢な者の宿命が笑っている。

(41頁)五月の夜。―― Ⅰ.おまえの衰えた目のなかに、血走った皺の網のなかに、ぼくは見ない、過去を。
 見るのはただ暗い歳月と、忘れられた夜々と、日々のない時のなかに、埋もれた情熱ばかり。
Ⅱ.おまえの身体は止まっている、日溜まりのあそこ、玄関広間に、幸いなる数日間、死の蕾に満たされながら。
 おまえの身体は、けれどもおまえ、老人よ、おまえは誰なのか、そこで、魅せられたかのように、凍った涙みたいに映る、そんな目をして?
Ⅲ.ああ、見よ、白い泉の灰色の水のなかのおまえを。あそこの下の底の底で、ひとりの少年が歌っている。
 榛の木林の真ん中で歌っている、おまえの息子のひとりみたいな美少年、その映る姿が静かな用水の水面に輝いている。
Ⅳ.身体とともに運び去られた、宿命なしの人生よ。父親となった息子によって、竈と未耕作地の間を。
 キリスト教徒の人びとよ、身を屈め、このまったき静けさのなか、十字架より降り来る、かぼそい声を聴け。

(43頁)フリウーリ舞曲。―― Ⅰ.少年が鏡の中を覗きこむ、彼の眸が黒々と笑い返す。気が済まずに裏側を覗く、身体かどうか見にその姿を。
 でも見えるのはただ滑らかな壁か、それとも意地悪な蜘蛛の巣か。 陰気にまた鏡の中を覗きこむ、彼の姿を、ガラスの中の仄かな光を。
Ⅱ.ぼくは少年だ、ぼくは鏡の中を覗きこむ、すると思い出がぼくに軽やかに笑いかける、生々しいぼくの人生の思い出が、黒々とした岸の草地みたいに。
 けれど気が済まずに、ぼくのどこか痛むのか見に裏側を覗く。仄かな光がある、仄かな光、ただ仄かな光の白だけがある……
Ⅲ.そこ、ガラスの裏側で、昔の、近い心の中の一つの鐘が、光の故郷の中の死んだ野辺の真ん中で炎をあげて燃える。
 光はぼくの生命だ、そしてぼくのために裸の空に祭みたいに鐘を打ち鳴らす、光はぼくの乙女である母だ、そしてその澄んだ揺り籠の上に祭みたいに鐘を打ち鳴らす。
Ⅳ.鏡の裏側でぼくの乙女である母が乾いた小径で遊んでいる。無花果と樹脂も新たな樫のあいだで、忘れな草が匂う。
 珊瑚の首飾りして土手径を嬉しそうに駆け去ってゆく、千九百二年の人生の仄かな光のなかを、溜め息のなかを……
(45頁)ナルキッソスの舞踏。――ぼくは愛で黒ぐろとしている、少年でも鶯でもなく、ただ全身が花みたいに、欲望なしの欲望だ。
 ぼくは菫たちに囲まれて起きながら、空は白んでいたが、同じような夜のあいだに忘れた歌を歌っていた。ぼくはおのれに言った。「ナルキッソスよ!」、するとぼくの顔をした妖精がその巻き毛の明るさで草地を暗くした。

(46頁)ナルキッソスの舞踏。――ぼくは菫で榛の木だ、肉の中の闇と青白さだ。
 ぼくは盗み見る、陽気なこの目で、ぼくの苦い胸の榛の木とぼくの巻き毛が怠惰にも岸辺の太陽に光り輝くのを。
 ぼくは菫で榛の木だ、肉の中の黒と薔薇色だ。
 そしてぼくは眺める、一本の桑の木の小陰で、ぼくの柔らかい蝋燭の明かりのなかで重たく優しく赫く菫を。
 ぼくは菫で榛の木だ、肉の中の乾いた所と軟らかい所だ。
 菫は捩ってその明かりを柔らかく榛の木の固い横腹に、そしてぼくの吝嗇の心から湧いた水の青い烟に姿を映す。
 ぼくは菫で榛の木だ、肉の中の冷たい処と生温かい処だ。

(47頁)ナルキッソスの舞踏。――ああ、ぼくの肩よ、ああ、ぼくの青ざめた顔よ、菫の黒とともに、竈のそばで、あるいは厩舎のなかで、ひとりでに輝くな、サーイネやブローロでのように……
 見よ、あちらでは太陽が(清純な愛の死ゆえの大蝋燭が)花みたいに臆病な、ぼくの黒い眸のガラスを燃え上がらす。

(48頁)ナルキッソスの田園詩。――昨日、祭の晴れ着をきて(けれど金曜日だった)ぼくは出かけた、柔らかな牧場と灼けた野辺へ。ぼくは両手をポケットに入れていた…… 十四歳! 美神の熱い身体! ぼくは腿を触っていた、ズボンのくっきりした折り目の下を。
 ある声が歌っていた、ポプラ林の木蔭で。ぼくは叫んだ。「ほい!」、
仲間かと思って…… ぼくは近寄った、すると金髪の少女だった……
 いいや、若い女だ、緋色のシャツを着て、霧の中でたったひとりで草を摘んでいた。
 ぼくは隠れて盗み見た…… そして彼女の場所にはぼくがいる。ぼくは見る、ポプラの枝の下に、根っこの上に腰を降ろしたおのれを。飼葉槽の底みたいに漆黒の、ぼくの母さんの眸を、真新しい服の下で、光っている胸を、そしてお腹の上に置かれた片手を。

(49頁)怪物か、それとも蝶か? ―― Ⅰ.晴天の一頭の蝶だ、ぼくの胸の空の中を舞っている。影ひとつない天上の蝶が空色の静脈の闇の中を舞う。
 いいや、晴天の一匹の怪物だ、そして彼の天上は毒だ。ぼくの目の中で凍りつく光が熱い、彼の裸の眼のまえで。
Ⅱ.いいえ、乳色の蝶だ、ぼくの夏の中の夏の真白。その快活さで彼女だとぼくは気づく、休んでも飛び去っても快活な彼女だと。
 いいや、ぼくの中で大きくなってゆく怪物だ、見知らぬ心の中に広がる黒雲のように。ぼくにほんの一瞬姿を見せて……それから姿を消してまた驚かす。
Ⅲ.いいえ、ビロードの蝶だ、少年のぼくが菫色で画いた。ぼくの菫たちの間に菫色に休む、変らぬ時の膝の上に。
 いいや、労苦の怪物だ、諦めの時に喚く叫びだ。何もかもに反対し、一切の外にいて、少年のぼくの花という花を汚してゆく。
Ⅳ.いいえ、美神の蝶だ、ぼくの胸から腿へと飛ぶ。彼女とならぼくは同じように暮らせる、たとえ彼女がぼくの外へは決して出て行かなくても。
 いいや、カザルサの絶望した無の中に棲む、希望の怪物だ。彼はぼくを大人にしてくれない、決して体験しなかったのではないかという露な疑惑ゆえに。

(51頁)盗まれた日々。――ぼくら、貧乏人には、時間はわずかしかない、青春と、美の時間は。世界よ、おまえはぼくらなしにやっていける。
 生まれついての奴隷、それがぼくらだ! 時間という繭のなかで死んだ決して美しかったことのない蝶たち。
 金持はぼくらに時間を支払わない。ぼくらの父親やぼくらによって美から盗まれた日々を。
 時間の断食は終わらないのだろうか?

(52頁)本物のキリストが来て。――ぼくは夢をもつ勇気がない。菜っ葉服の青に油汚れ、ほかに何もない労働者のぼくの心のなかに。
 労働者よ、はした金ゆえに死んでいる、心よ、きみは菜っ葉服を嫌った、だからきみの最も真実の夢を失った。彼は夢をもった少年だった、菜っ葉服みたいに青い少年は。労働者よ、本物のキリストが来て、きみに本物の夢をもつことを教えるだろう。

(53頁)コラーンの遺言。――あの千九百四十四年にぼくはボテール家の作男をやっていた。義務という太陽に灼かれて、あの年はぼくらの聖なる時だった。竈のうえにたれこめる黒雲、空のなかにひろがる白い染み、それらは鎌と槌を愛することの、恐怖であり、快楽であった。
 ぼくは十六歳の少年だった、心は粗く無軌道で、目は灼熱した薔薇みたいで、そして髪は母さんゆずりの髪だった。ぼくはボッチェ・ゲームを覚え、巻き毛に油を塗り、祭ごとにダンスに出掛けだした。黒ぴかの靴!薄い色のシャツ! 青春よ、よそ者の土地よ!
 あのころ蛙釣りに出かけた、夜中にカンテラと銛をさげて。リーコは葦原と草むらを血に染めた、赤いカンテラで骨を凍らす暗闇のなかで。シーレ川では小魚が何千匹も淵で見つかった。ぼくらは大声を立てずにゆっくりと進んだ。
 ポプラの小森のなかで食べおわるや少年たちの一団全員がすぐに集まった。そしてそこでぼくらはしばしば悪口を叩いた、まるで鳥たちが囀るかのように。そのあとぼくらは玉蜀黍畑の小陰でカード遊びをした。母さんと父さんは亡くなっていた。
 日曜日には、粗野な心の男たちは、自転車にのって走りさり、値打ちのない魅惑の館へ赴いた。ある晩ぼくはネータを見かけた、
 小森の木漏れ日のなかを、牧場へ牝羊を連れゆく彼女を。その小枝を振りふり彼女は絹みたいな大気を揺り動かしていた。
 ぼくは草と堆肥とぼくの熱い革の胸のなかで諦めた汗の匂いがした。そして履いたズボンは脇腹で、夜明けから忘れられて、雨の涼気なしの夜々とまどろんだ明け方に膨らんだ欲望を隠さなかった。
 ぼくは初めて味わった、十三歳のあの少女と、そして熱情に漲って逃げだした、仲間に話して聞かせるために。土曜日だったのに、犬一匹、町中にはいなかった。セラーンの家が燃えていた。家並みの明かりはみな消されていた。
 広場の真ん中にひとりの死者が凍った血溜まりのなかに倒れていた。まるで海みたいに人けのない町中で四人のドイツ兵がぼくを捕らえて哮り狂って喚きながらぼくを連れてゆき、物陰に止めてあったトラックに小突き上げた。三日後にやつらはぼくを縛り首にした、居酒屋の桑の木に。
 ぼくのこの姿を遺贈する、金持たちの良心に。虚ろな眼窩と、ぼくの粗野な汗の匂いを放つ衣服とを。ドイツ軍に対してぼくは恐れはしなかった、おのれの青春を漏らすことを。貧しい人びとの無辜と、勇気と、苦しみと、万歳!

(56頁)美しい若者。――美しい若者がタッリアメーント川の岸辺に佇み、その小犬が吠えていた、かれも嬉しそうに。そこにパドローネが通りかかる。「おいおい、美しい若者よ、百リラ払うぞ、おまえのその陽気な心ばえに。」「ああはい、はい、パドローネさま、百リラならさしあげましょう、ぼくはそれでも陽気でしょうよ、もう笑わなくっても。」七ヵ月経って、美しい若者がタッリアメーント川の岸辺に立って、小犬は丸くなって寝ている。そこに奥さまが通りかかって、彼の美しい巻き毛が、まるでナルキッソスの花のように、太陽に煌めいているのを見る。「おまえのその黄金色の巻き毛を、あたしにくれるなら、美しい若者よ、おまえに仕事の口を世話してあげよう。」
「奥さま、みんなどうぞ、ぼくらは貧乏人だから、巻き毛なんかなくっても、ぼくらはそれでも平気です。」そうしてすっかり満足して彼はタッリアメーント川の橋へゆき、背中に背負って運ぶ、あのセメントのブロックを。七ヵ月経って、橋が完成したとき、若者は心のなかでいっそう傷ついていた。「何をしているのだね、ここトリエーステで、内気な美しい若者よ?」「ぼくは失業して、おのれの十字架を背負っている」「おまえの健康をおくれ、仕事をあげるから」「ぼくの健康をとってくれ、やはり食べねばならないから」哀れな鐘よ、鳴りひびけ、アヴェマリーアの夕べの鐘よ、鳴れ、若者が帰ってくる、憂いに満ちて。哀れな鐘よ、鳴りひびけ、夜明けの鐘よ、鳴れ、いまではもう年老いた、あの美しい若者は。